愛を受け取る、全て受け入れる

昨日は評価について書いたけど、これを身近な人に当てはめると面倒なことになる。

どうせ私のここが、その時はたまたま良いと思っているだけで、今は何か違ってる気もするし、なんか相手の様子もいつもよりそっけない気がするし…って面倒くさいわ笑

身近な人からの愛、気遣い、行動は私を愛しているからされるもので幸せと同じで

無条件のものである。

どんな私でもどうせ愛されている。どうせ愛されているは心屋さんからの受け売りで、本当に魔法の言葉だなあと思う。

 

冷静に考えて逆の立場だったら、どうせ私なんて…と思われるよりもどうせ愛されてる♪ルン♪って思われてたほうがこっちも色々してあげたくなるじゃん。

なかなか当事者になると分からないものだ。相手に何もできてなくてもどうせ愛されている。

 

あと、うまくいってる人は神の声を聞いてるなと思った。何を言い出すんだという感じかもしれないけど、つまり神とは目の前に起こった事象、という考え方。神がそっちにいくな、とかこっちにいけ、とかを目の前の事象を通じて教えてくれる。それを受け入れて従っていると自然と良い方向に運ばれていく。人間の考えなんて小さくて、目の前にやってきた波をただ受け入れていれば思いもよらないところに運ばれていく。自分に合ったところに。つまり目の前のことをただ感じ、受け入れるということ。それが大事なのかもしれない。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

評価について。面接、note

自分が発したことに対して良い反応が来るのは嬉しい。

けど、それは別に私のことが好きだというわけではなくて、

私が発したことがたまたま良いと思っただけだという当たり前のことが、

いざ当事者になると分からなくなったりする。

だから別に評価が高いからといって自分の自己肯定感を上げるのも違うし、

評価が低いからといって自分の自己肯定感を下げるのも違う。

発したことはあくまでその人の一部でしかなく、その人の価値とは関係ない。

 

今日は面接があったのだけど、丁寧に話す、丁寧に接するようにしたら結構落ち着けた。丁寧って言った途端、遅いことが価値に変わるから、焦らなくなる。
色々遅い私にはありがたい言葉です。

 

 

今日はnoteの登録もしてみた。書いた人1人1人の思いの部分がなぜかnoteだと強く出ている気がして、短い本を読んでいる感覚で楽しかった。きっと当たり前にみんながネット上で本を書く時代なんだろうなあ。知らなかった。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

純粋理性批判2

あと今日はNHKの「100分で名著」の『純粋理性批判』の最終回を見た。

 

カントは全てが物理学等で説明できる因果律の中にあるなら、我々に自由意志はないのではないかということを考えた。しかしそこで自分なりに普遍的に成り立つであろうという道徳を持って行動していれば、その道徳は自由意志といえる。つまり因果律と自由意志は両立する、ということを言っているそうだ。例えば生活が苦しくて、お金を得るために悪行をしてしまったという場合、生活が苦しかったとしてもそこで悪行をしないという自由はあるので、そこに自由意志がある、ということだった。

 

へ~と思いながら見て、その後武田双雲さんの動画を見たのだけれど、双雲さんはあまり自分が何かをする、というより目の前の神による素晴らしい贈り物(だったかな?)にただ感動しているだけだ、というようなことを言っていた。

 

 もしかしたら双雲さんに自由意志はないのかな、なんて思ったりした。

 

波に乗るということは、つまり良い因果律に乗るということなのかなと。

自由意志を放棄する。それよりももっと大きなものに身を任せる。

その都度意思を持つというよりただ接し方、自分の波長を変えるだけなのかな、っていう感じ。

そうすれば自然と良い波に乗る。

難しいけど。

 

そしてふと「アートオブデザイン」でネリさんが言ってたことを思い出したけど、

アインシュタインの言葉で「人生には二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。」というものがあるらしい。それも波に乗るということにつながっているのかな。身の回りのことを奇跡として感じることでより大きなものに出会える。正しい良い因果律に乗れる。逆に奇跡が無いというように生きると因果律に乗れないのかな、みたいな。それが悪いわけでもないと思うけれど。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

 

当たり前

今日は心屋さんのポッドキャストを聞いたのだけれど、当たり前だと思ってることは当たり前にできるのかなと思った。

 

全部ができるとは思ってないけど。

 

なんでこんなことを思ったのかというと、今日はうちの接続の悪いと思われるスマホの充電コードが百発百中でつながったからだ。

今までは、今回は充電できてくれ!と願いながらコードをスマホに何度も差し、それでも充電マークがつかない…なぜだ…と思っていた。

しかし今日その当たり前理論を思いつき、「いや、当たり前にこのスマホに電気は通って充電できるよね。」と思いながら充電コードを差したら、今日充電した3回の3回とも一発で電気が通り充電できたのだ。笑

もちろんたまたまかもしれないけど、ちょっとびっくりだったのだ。笑

 

そんな感じで、色んなことが当たり前になったら色々なことができるのだろうなあと思った。だから付き合う人が大事という話があるのだろう。周りの人が当たり前だと言っていたら、自分も当たり前だと思うようになるから。

 

一方で、この環境は当たり前のことではなく、一つ一つ大切にしていきたいという思いもあり、それは何だか矛盾している気もする。まあ一つ言えるのはやっぱり、できることできないことと自分の幸せを結び付けないことかなと思う。

多分全てが当たり前にできる人生ってつまんないよね。なんか工夫して、できるようになった!とかが楽しいっていうのはあるもんね。

つまり、充電コードが10回に1回しかつながらなくても、一発でつながっても、私は幸せだということだ。笑

 

お読みいただきありがとうございました。

 

自分を認めること

さっきのブログに付け加えて。

 

人に満たしてもらおうとしない、ということを先程書いたのだけれど、それに加えて、仕事やお金に満たしてもらおうとしない、つまりは自分の外部のものに満たしてもらおうとしない、というところまで発展するのではないかと思った。

もしそれを持っていなかったら幸せでないなら、それを持っていない状態は不幸せということになるではないか。(同じこと言ってるけど笑)

 

つまり、ベースは幸せなのだということ。何を持っていなくても私は幸せなのだということ。なぜ幸せなのかと思うかもしれないけど、つまり幸せだと思うことは今の自分を全て認めるということなのである。

 

つまりそれは成功を手放すということでもある。できてもできなくても幸せなのだ。

 

自分を認める。それでしか人は自分を満たすことができないのではないか。

その手段が、人であったり、お金であったり、仕事であったり、にいきがちなのかもしれないけど、本来は自分で自分を認めることでしか自分を満たせない。条件によって自分を認められたり認められなかったりするならそりゃ不幸だよ。

 

何が無くとも幸せなのだ。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

人に求めない

お疲れ様です。

 

今日はバイトだった。今日も何だか物には丁寧に接しているけど、人にはあまり丁寧に接せられてないかもなあ…と思って人にも物にも丁寧に接することを心掛けた。

そうすると、あまり疲れなかった。何だか気持ちがよくて、仕事が楽しくなった。

 

あと、今日は会いたい人に会えない一日だったのだけれど、その不安は、単純な寂しさではなく、「一人になる不安」さらに言えば、「自分が満たされなくなる不安」だったのかなと思った。なんだかんだで、まだまだ人に埋めてもらおうという自分がいる。

それは悪いことではないと思うけれど、それで自分が苦しくなるなら、それは自分を大切にしているということにはならないよね。それなら、自分がコントロールできる範囲で、自分を満たそう。そうして初めて健全でいられると思った。

 

ツイッターでもインスタでも、そりゃ反応が返ってきたら嬉しいけど、そんな自分でコントロールできないものに寂しさを埋めてもらおうとしている時点で、正直あまり幸せじゃないよね。あくまで自分は文章を書いているのが楽しい、だからブログを書く。写真が好き、だからインスタをやるというだけである。じゃあ公開する必要なくないか?と思うかもしれないが、反応あったらあったで喜べばいいということなのだと思う。ただ、それが目的ではないというだけ。誰が認めてくれようとくれまいと、私が自分でいれさえすれば私は幸せを感じられるのだと思う。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

波長を良くする

今日は武田双雲さんの波長の話について少しわかってきた気がした。

振動数が同じ物同士は共振して、より大きな波となる。

逆に合わない振動数の物同士は打ち消しあう。

そうだとすれば、自分が良い波長でいれば自分と同じ良い波長と共振するし、

自分が良くない、居心地が悪い波長でいると同じ良くない波長と共振する。

 

もちろん物質としての波長は意識とは関係なく決まっているのかもしれないけど、もし気持ちや魂というものに波長があるなら、それは意識によって変化するのかもしれない。

そう考えると自分は自分にとって居心地の良い状態(波長)で居続けたいし、そうしているとより居心地の良い人や物とつながるんだろうなあと思った。

 

あくまで自分の解釈なので違うかもしれないけれど。

 

ということで今日は丁寧に、機嫌よく研究テーマについて調べた。するとやっぱり集中するし、調べるのが心地よくなった。だし、ものそれ自体に決まった波長は無くて、自分の振動数によってそのものの心地よい波長だけが共振する気がした。

 

今日も読んでいただきありがとうございました。

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Feel The Gadenさんの苔テラリウム